毎年、夫の実家に帰省した時、子供の身長を壁に記しています。
1年でどのくらい伸びたか、また、同じ壁に記されている年の近いいとこたちの成長ぶりと比べながら、おじいちゃんとおばあちゃんも一緒に楽しんでいます。
童謡「せいくらべ」でも、身長を測った思い出を歌にしていますが、こちらはどうやら毎年はかっているようでないですね。
「柱の傷はおととし」…どうして?
そこで今回は、歌詞をよく見ると謎の多い童謡「せいくらべ」の気になる点を調べてみました。
海野厚作詞「せいくらべ」とは
「せいくらべ」
1 柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
はかってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ なんのこと
やっと羽織(はおり)の ひものたけ
2 柱にもたれりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
てんでに背のび していても
雪の帽子(ぼうし)を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山
作詞:海野厚
「せいくらべ」の作詞は大正時代の詩人、海野厚さんです。
海野さんは北原白秋に認められて童話作家となりました。
代表作には「せいくらべ」のほか、「おもちゃのマーチ」があります。残念なことに結核のため28歳の若さで他界。
そのためあまり多くの作品は残されていないようです。
明治・大正・昭和初期は、結核で死ぬ人が本当に多いですね。
「せいくらべ」は彼が早稲田大学在学中に、体験をもとにして書いた詩です。
大学に通う学生が「せいくらべ」と聞くと「あれ?」と思われるかもしれませんが、じつは海野さんは身長をはかってもらった側ではなく、はかった側でした。
彼は7人兄弟の長兄で、幼い弟の背をはかったエピソードを弟の視点で書いた作品が「せいくらべ」なのです。
弟を想う兄が作った「せいくらべ」。歌詞を見ただけではわからない人間模様が面白いです。
「柱の傷が一昨年」だったわけ
弟の身長をはかることを毎年楽しみにしていたであろう海野さんですが、学生時代に帰省できず、身長をはかってやれなかった年があったようです。
帰省できなかった理由は諸説あり、
①結核になり療養治療中であったため、
②恩師の追悼会に出席していたため、
などです。
28歳の時に結核で死んでしまったことを考えると、結核療養の説が有力な気もしますが…。
弟さんは海野さんよりも17歳年下だったそうです。
下手すれば親子ほども離れたかわいい弟の成長は、海野さんにとっても楽しみの一つだったかもしれません。
海野さんが28歳の時に亡くなったというとこは、弟さんはその時11歳。
かわいがってくれたお兄さんの死は、弟さんにとっても痛ましいことだったでしょうね。
何が「やっと羽織の紐のたけ」だったの?
明治・大正あたりに作られた童謡には、単純に歌っていると意味の分からない歌詞が多い気がします。
じっくり深読みすると、いろんな解釈ができて面白いです。
この歌にも「やっと羽織の紐のたけ」とありますが、「何が?」と聞きたくなるような一文ですね。
実は羽織の紐のたけの深読みの仕方には、諸説あるようです。
羽織の紐のたけの高さ比べ説
一つ目の説が、弟さんとお兄さん(海野さん)が立ち上がって並んだ時、弟さんの身長がお兄さんの着ていた羽織のひもの部分と同じくらいだった、というもの。
小さな少年が、自分の背丈と兄の羽織の結び目の高さを一生けん命くらべている様子が目に浮かびます。かわいいですね。
羽織の紐の長さだけ背が伸びた説
2つ目の説。
柱の傷を見ると、おととしからどの位弟の背が伸びたのかがわかります。
その身長の差とと、お兄さんの羽織の紐の長さ(羽織を結んでいる間の長さ)が同じくらいだ、とする説です。
羽織を着ない今の私たちにはピンとこない表現ですね。
どちらかといえば、紐の長さ分身長が伸びた説が有力のようです。
個人的には、前者の説が好きです。子供は背比べをしたがるので、お兄さんの羽織の紐のたけとひそかに毎年競争していたのではないかと想像します。
その光景は、ほほえましくてうれしくなります。
まとめ
実際の兄弟の思い出をもとにつくられた「せいくらべ」。
ほんの些細な出来事ですが、思い出って日常のちょっとしたことの積み重ねかもしれませんね。
次回の、我が子たちのせいくらべが楽しみになってきました。